「稽古」ということについて、ためつすがめつ、ながめてみることにいたしましょう。
ふだんから、お茶やお花、あるいは柔道などの稽古に励んでいる方も多いでしょう。
そもそも稽古とは、「古を稽(かんが)える」ことで、稽えるとは、考えることに近い。古語では「かむかう」と綴ります。
「か」は発語(語調を整えるための接頭語で、「さ霧」「か弱し」「た易し」などの「さ」「か」「た」などの語)、「む」は身、「かふ」は交わることです。
つまり、稽えるとは、対象を観察するだけでなく、我が身に引き寄せて積極的に交わって、比べ、調べていく態度のことです。
では何を引き寄せ、何と比べてみることが稽えることなのでしょうか。
約(つづ)めていえば「いにしえぶみ」、すなわちそれは古典なのです。
ヨーロッパにおいて古典に学ぶということは、ラテン語に学ぶことであり、古代ギリシアの知と美に分け入ることでした。遠い過去の他者に思いをめぐらし、想像すること。彼らの考えていたことと、現代の諸問題を重ねあわせる行為が、けだし「稽える」です。すなわちこれが「教養」ということです。
教養は、ドイツ語で、BILDUNGS。英語でいえば、「(理想の自分に)なる」という意味で、BECOMINGです。
ドイツの詩人ゲーテは云いました。「自分になること以外の目的を持たないこと」、それが教養だと。自分が自分になること、自分を形成すること、そうして、他者を理解することが教養であり、稽えることなのです。
さて、「考える」に似た言辞に「思う」があります。だれしも大切な人を心に思い浮かべたとき、胸のあたりが、ぎゅっと重たくなった経験があるはずです。そう、思うは「重う」なのです。
ところでわたしが見る限り、昨今、日本人は、稽えるということを、なおざりにしています。
みんな、すぐに分かりたい。そのために、巷にはハウツー本があふれています。分からないことは恥ずかしいことではありません。つくねんと座り込んでいるのがダメなのです。
今回、稽えるということを、とみこうみ、ながめてみたように、何事も対象に一歩深く踏み込んでみるクセをつけたいものです。
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