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その七 花と芸能

 「秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず」(『風姿花伝』)。
  わたしが亀鑑にしている能を体系付けた世阿弥の言葉です。
  ここで云う花とは、能を舞う演者(シテやワキなど)から発せられる空気観のこと。そうして演者の存在すべてを指します。 
  秘めておくからこそ、花になる。あからさまにしてしまえば、もはや花ではない。もちろんこの教えは、能に限らず、あらゆる稽古に通じる心構えなのです。
  世阿弥は、云います。「靡(なび)き」「伏す」「返る」「寄る」といった言葉は柔らかい響きがあるので、そこに注意を払えば余情豊かな演技になる。
  一方、「落つる」「崩るる」「破るる」「転(まる)ぶ」は強い響きを持っているので、その言葉をもって演ずると、自然と所作が強くなる、と。
  すなわち、言葉によって演技全体が大きく影響を受ける。なるほど、これが台詞(呼吸)の大きな役割なのです。
  わたしは、世阿弥の言葉を拾い上げるこの感覚にぞっこんです。とりもなおさず言葉の響きを聞き分け、敏感に感じ取ることで、芸の窮極に達する、そう世阿弥は諭しているのです。
  秘めておく。すべてを見せないのは日本の意匠でも同じです。
  京の古刹・竜安寺。その有名な石庭は、十五の岩が組み合わさり全体で蓬莱山(極楽浄土)を想起させます。個々の岩や石はもたれ合い、重なり合い、あるいは微妙に反発しあって亀や鶴などをかたちづくっています。
  特徴は、どこから見てもその岩や石の全体の数が見えないように設計されていること。
  すべてを見せない。伏せる。見えにくくする。空席をつくる。だからこそ、そこに想像力がさっと流れ込むのです。日本の芸能や美術がもっとも得意とする手法です。  
  察しが悪いですね、というのはこの見えない部分に勘の働かないことで、他方、阿吽(あうん)というのは、この関係がすこぶる良い状態にあることです。
  なおなお世阿弥は道破します。老人の真似はさらにむずかしい。ただいたずらに、腰をかがめ、体を縮めてみたりするのは芸ではない。大切なのは老木(おいき)に花を咲かせる感覚なのだと。
  ともかくも芸の中心には「花」という感覚が確かに潜んでいるのです。



(07/07/14号掲載)


 

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