「自分」という日本語について考えてみましょう。
発話者が「自分」といったときの自分は発話者自身である「わたし」を指す、これがすぐに思い浮かべる一般的な理解です。「自分はこう考える」「自分の好みはこうだ」というときの自分です。しかし、次の瞬間、でも待てよ〜と疑問を持たれる方がいらっしゃるでしょう。当然です。
どういうことかというと、例えば関西の漫才では「自分、今なに言うた」と相手にツッコミを入れますが、このときの自分は、「わたし」のことではなく、目の前にいる「あなた」であるのは自明です。
「てまえ」といっておきながら、一気にひっくり返って「てめー」になるのが日本語のおもしろいところ。
まだまだあります。
「我」というのもまた同様です。我、我々は「わたし」「わたしたち」のことですが、「われ、どこ見てるんじゃい」といったときの「われ」は、「あなた」のことです。そうそう、「己」も相手を斬りつけて「おのれ〜、たたき斬ってやる〜」となるわけです。
そもそも、日本語には、二人称がない。そういうと、「あなた」があるじゃないか、とおっしゃるでしょう。では、ドイツロマン派の詩人カール・ブッセの詩「山のあなたの空遠く〈幸い〉住むと人のいふ」(上田敏訳)がございますが、この「あなた」をどのように説明されますか。
実は「あなた」はもともと「向こうの方」という意味だったのです。ちなみに「そなた」は「そっちの方」です。時代が下ってあなたもそなたもyouの意味になったのです。
「キミ」は「君」であり「公」ですが、いずれも、人の上に立つ身分の高い人をいいました。それは単純に「あなた」のことではないのです。
また、「おまえ」という呼び方がありますが、元は、神や貴人の御前という意味で、直接あなたという意味ではありませんでした。
そもそも、昔は、相手の名前を直接呼ぶことは大変失礼なことでした。相手に名前を呼ばれるのは、相手のものになったということでした。ですから契りを結ばなくては、相手を名前で呼んだりしないのです。
ちなみに「やつ」は「あやつ」の省略で、元は「あのやつ」で、更にそれは「やっこ」で、やっこは家っ子のことで、身分の低い使用人を指しました。
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