キッチュな静岡



第5回 黄金の仏像

  薩摩通りを行き交う人々を見下ろす黄金の仏像が、ビルの屋上に立っているのをご存じだろうか。


青空に光り輝く“黄金の仏像”。信仰からも、芸術からも開放されたその姿は、ある意味晴れ晴れと美しい


  どうもこの黄金の仏像は、仏壇などを売る会社のありかを示す標識で、まったく同じ黄金の仏像が、国道1号の丸子から宇津ノ谷トンネルへ向かう右手にも立っている。
  タイ国を旅して国道を走っていると、突然黄金の仏像が立っていたり、座っていたりする風景に出合ったが、あちらのは日々人々が祈りをささげ、仏をそこにみようという信仰の黄金の仏である。
  ところが、仏壇会社の標識となっている静岡の黄金仏には、誰も手を合わせている者はなく、それなら芸術作品かといえば…そうでもない。仏をそこに見ようという信仰の眼差しも、芸術を見たという感嘆の眼差しも届かない。ただただ、「ここに仏壇を売るお店があるのですよー」と指示する標識の仏像なのだ。
  しかし、これほど見事に信仰理念から開放された仏像はないのではないか。これこそが
「信仰のボロ」と分類される、信仰キッチュの好例だろう。ただし、この黄金の仏像を屋上から降ろして、墓場の中心に据えたとしよう、彼岸会(ひがんえ)の日などたちまちにして黄金の仏像の前にはお賽銭(さいせん)の山ができるはずである。
  場所、空間なのだ。この際どさこそがキッチュと芸術の境界線であり、近代芸術が放棄した信仰と芸術の溶解点なのだ。
  「地獄の門」の一部であったロダンの「考える人」は、像を独立させることで宗教の磁場から理念の造形芸術の磁場へと離脱した。
  だが、広隆寺の考える仏像、半迦思惟像(はんかしゆいぞう)と一体どこが違うのだろうか。


(08/03/22号掲載)


 

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