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その四 

 四季のある日本では、移りゆく「時」というものに独自の感覚を寄せていました。もちろん西洋哲学においても、「時」の問題は多くの哲学者にとって「自己とは何か」に並ぶ最大の関心事だったのすが、それはむしろ時間の構造の方に思索が傾いていきます。
 一方、日本では神話や文学、和歌や俳句という表現手法にけん引されながら、「時」に自己を重ねることで多くの言霊を産み落としていくのです。また、時を意識するという意味では、芭蕉は、葉っぱが地面に落ちる間にその状態をつかまえて俳句を詠んだと言われています。
  「時」という言葉にはそもそも、「とける」、つまり滅びる方向へコトが進んでいくという意味と同時に、「長(た)く」、すなわち成長するという逆の意味が折りたたまれています。またいくつかの古典を解釈すると先人たちは、「疾(とき)」、疾走するように駆け抜けていくという意味と同時に、「常(とこ)」、一見変わらない状態で、ずっとそこにあり続けるものだという意味を込めていたりする節もあります。
 このような、二つの相反するものを同時に抱え込むという方法は、日本文化を読み解く重要な視点です。
 前田知洋のクロースアップマジックよろしく、自分を「手前」と呼びながら、一瞬にして相手を「てめー」と呼び変えてしまったり、宮中の雅なコンセプト「あわれ」が、武士が台頭しはじめると「あっぱれ」に衣替えする。これは背中合わせにある言葉が姿を現した瞬間です。
 ところで三十六句からなる連歌・俳諧では、歌をつくっていくことを「巻く」と言います。これは明らかに時間の経過を意識していると思いませんか。 考えてみると、日本で発展した巻物は、最初からくるくると巻いていって、常に時間の経過という中で物語と読み手がかかわりをつくっていきます。一方で、西洋で形を整えたBOOKというものは、ページをパラパラ繰れば、時間経過をあまり意識せず、どこからでも物語に介在できるのです。
  それから、巻物を保存しておいた寺とその状態を表したのが、「時」という漢字です。

 


(06/08/19号掲載)


 

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