
▲朝鮮通信使の覚書を手にする藤原東演さん。食事の手配や、一行が旅立ったあとの大掃除など、おおごとだった様子がうかがわれる

▲大火や戦災を逃れた寺宝の一つ、武田信玄の朱印状
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徳川家康は東海道の約8qごとに宿を定め、荷物の輸送は宿駅ごとに継ぎ送る「伝馬制度」を設定しました。府中宿として知られ、伝馬の施設を備えていたのが「伝馬町」です。「多数の旅籠が並び、人馬の行きかう活気ある町だったのでは」と言うのは、宝泰寺の住職、藤原東演さんです。慶長6年に伝馬御朱印を賜り、8000坪の伝馬屋敷が存在。のちに谷津山の清水寺前に2000坪の馬場を設け、馬100疋と伝馬役100人が勤めていたといいます。
興津の清見寺、静岡の臨済寺とともに駿河三刹と称される宝泰寺の歴史は古く、開山はなんと1381年。分かっているだけでも、藤原さんは24代目のご住職にあたります。
「この寺は昔から同じ場所にあり、江戸時代には今の境内を北限に、JRの線路を越えたあたりまで広がっていた。このあたりには寺が並び、朝鮮通信使が東海道を往来した際の休息所として、六度利用されました」
室町時代に始まった朝鮮通信使は戦国時代にとだえ、豊臣秀吉のもとを一度訪れたものの、秀吉は朝鮮に出兵。
のちに家康が国交を回復し、江戸時代に12度来日しています。
宝泰寺の、大火や戦災の被害をまぬがれた一部の歴史資料の中に、朝鮮通信使の覚書が残されていました。「1度に250人の朝鮮人を迎えるため、駿府奉行は半年も前から入念な準備をしています。朝鮮人の衣装に、駿府の人はさぞ目をみはったことでしょうね」。
やがて明治元年、伝馬町が歴史の表舞台に現れる時がやってきます。有栖川総督が幕府打倒をめざし、東海道を江戸へ。「そんな中、勝海舟の命を受けた山岡鉄舟と西郷隆盛が伝馬町で会見し、江戸城無血開城をなしとげたことは有名です」。
街中にありながら、街の喧そうを忘れさせる宝泰寺。静けさに、流れる歴史がしのばれました。
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