<< その五を見る
その七を見る >>

 
[6] 大鋸町(おおがまち)
木挽き職人たちが居住。木の香漂う、人情豊かな町


▲牧田家の15代目にあたるという牧田静ニさん


▲「駿州木挽総支配人」の文字が見える古文書と、牧田家が発行した職人の組合員証


 東海道の本道である本通りや新通りと平行に走り、脇道的な役割をはたしてきたのが、「土手通り」。「この通りに沿って、大鋸町、大工町、研屋町などの職人の町が続いていました」というのは、代々大鋸町に居をかまえてきたという牧田静ニさんです。       
  約400年前の慶長年間。駿府城の修築や浅間神社の造営で、木材需要が高まったため、牧田家の先祖・牧田太左衛門は木挽き職人の集団と共に、駿府へ移住。駿州木挽き総支配人の役名を拝領して、代々、製材業や材木商を営んできました。屋敷内には土蔵が立ち並んでいたそうですが、静岡の大火の折に焼失。難をのがれた材木蔵に、牧田家が発行した職人の印鑑(組合員証)や、古文書などの資料が残されています。
  「安倍川の流れで運ばれた材木は、この土手通りを、馬力や大八車で運ばれてきた。私
が小さいころは、家の裏手の空き地で実際に大鋸で柱や板を製材していたものです。土手通りは道自体が少し高くなっており、その傾斜を利用して、大きな材木を邸内にころがし
入れた、と聞いたことも。“土手通り”の名称はそんなところから付けられたのではないでしょうか」。
  大鋸町は、碁盤の目のように整備された駿府の繁華街の最も外側に位置し、土手通りは言ってみれば町の外枠にあたります。「外敵の襲来を遅らせるために土手通りの外側では、交差点は十字路ではなく、わざわざ“かぎの手”(丁字路)になっているのですよ」と牧田さん。そんなところからも、家康の町づくりへの工夫がうかがえます。
  「このあたりは昔から家々が密集する、活気あふれる職人の町だった。人間らしく、あたたかな町だったと思います。今では小さな町名は、ほとんどが合併や町名変更で消滅しましたが、大鋸町は生き残った。歴史が刻まれるこの町名を、ぜひ大切にしたいと思いますね」



▼大鋸町のいわれ

 「大鋸(おおが)」とは文字通り、大きなのこぎりのこと。大鋸を扱って材木を挽き割り、角材や板に製材する木挽き職人が居住していたことから命名された。木材をのこぎりでひいたくずを大鋸屑(おがくず)と呼ぶのは、ここに由来する


(07/04/28号掲載)







 

Copyright (c)2001
Shizuoka Living Newspaper Network, Inc.
All rights reserved

このサイト内で使用されている
写真・イラスト・文章の無断転載はできません。
お問い合わせは「Lウエーブ事務局」へどうぞ。