
▲牧田家の15代目にあたるという牧田静ニさん

▲「駿州木挽総支配人」の文字が見える古文書と、牧田家が発行した職人の組合員証
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東海道の本道である本通りや新通りと平行に走り、脇道的な役割をはたしてきたのが、「土手通り」。「この通りに沿って、大鋸町、大工町、研屋町などの職人の町が続いていました」というのは、代々大鋸町に居をかまえてきたという牧田静ニさんです。
約400年前の慶長年間。駿府城の修築や浅間神社の造営で、木材需要が高まったため、牧田家の先祖・牧田太左衛門は木挽き職人の集団と共に、駿府へ移住。駿州木挽き総支配人の役名を拝領して、代々、製材業や材木商を営んできました。屋敷内には土蔵が立ち並んでいたそうですが、静岡の大火の折に焼失。難をのがれた材木蔵に、牧田家が発行した職人の印鑑(組合員証)や、古文書などの資料が残されています。
「安倍川の流れで運ばれた材木は、この土手通りを、馬力や大八車で運ばれてきた。私
が小さいころは、家の裏手の空き地で実際に大鋸で柱や板を製材していたものです。土手通りは道自体が少し高くなっており、その傾斜を利用して、大きな材木を邸内にころがし
入れた、と聞いたことも。“土手通り”の名称はそんなところから付けられたのではないでしょうか」。
大鋸町は、碁盤の目のように整備された駿府の繁華街の最も外側に位置し、土手通りは言ってみれば町の外枠にあたります。「外敵の襲来を遅らせるために土手通りの外側では、交差点は十字路ではなく、わざわざ“かぎの手”(丁字路)になっているのですよ」と牧田さん。そんなところからも、家康の町づくりへの工夫がうかがえます。
「このあたりは昔から家々が密集する、活気あふれる職人の町だった。人間らしく、あたたかな町だったと思います。今では小さな町名は、ほとんどが合併や町名変更で消滅しましたが、大鋸町は生き残った。歴史が刻まれるこの町名を、ぜひ大切にしたいと思いますね」
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